2010年2月27日土曜日

政治献金の透明化

読売新聞2010年2月26日朝刊の記事を紹介する。

 クレジットカード大手のクレディセゾンは、カード決済による個人の政治献金の取り扱いを3月16日から始める。業界大手が「カード献金」を扱うのは初めてで、他のカード会社も追随する見通しだ。政党への企業・団体献金は、原則禁止をめぐる議論が与野党間で活発化し、日本経団連も関与をやめる方針で、今後、見込まれる個人献金の拡大に対応する。

これは大歓迎ですね。全てがトレーサブルである必要は無いと思うけど、今までの政治献金は不透明すぎた。先の「故人献金」や「子ども手当」などはその最たる例だろう。他にも帳簿に載らない現ナマがあるかもしれないし、それがあったとしても誰も証明できない。こんなことがまかり通る世界で生真面目にやる奴だけが損をする。それじゃ腐るよね。

今回のクレディセゾンの対応は、企業・団体献金の規制と、それに伴う個人献金の増加を見込んだものだが、一方でカネの流れがトレーサブルになることも非常に重要なポイントだろう。

最近、一部方面でベーシック・インカム(BI)についての議論が活発になっている。批評家の東浩紀はBIの給付分を電子マネーとしたらどうかと提言している。つまりBI給付分のカネの流れは全て記録される。プライバシーを売る、と言い換えてもいいだろう。使い道を記録されたくないカネは働いて稼ぐ。BIや東浩紀の提言の是非はここでは問わないが、カネの使い道をトレーサブルにすることは、いわゆる不正な事にカネを使いにくくする一定の抑止力はあるだろう。

政治家にプライベートを全て晒せなどと言うつもりは無いが、少なくとも有権者の信任を受けて仕事をする以上は、その活動でカネがどのように流れたかを明示できる必要がある。こんな事は小学生でも理解できる論理だ。

他のカード会社はすぐにでも対応してほしいものだ。ちなみに私はVISAカードしか持っていないので、VISAさん、よろしくお願いします。

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2010年2月20日土曜日

自己表現力

読売新聞2010年2月5日朝刊の記事を紹介する。少し長いが全文を掲載するため、読むのが面倒な方は下に要点を3点あげたのでそれを見てください。

拝啓 文部科学大臣様
自己表現力の向上 重視を
猪口孝 新潟県立大学学長

 自己表現力について、私には今でも忸怩たる思いがあります。1970年に米国に留学していた頃、大学の社会科学系の図書館長にある要請をしに行きました。内容は、ある分野の蔵書が弱いとかいったたぐいのことでした。
 小柄な館長の口から返ってきた言葉は、「君は何をしてもいい。ただ、石ころを窓に向かって投げないでくれ!」。私の格好はといえば、ヒゲを蓄え、ジーパン姿。笑顔もなく、ぶっきらぼうで、単刀直入な英語だったのかもしれません。それにしても、自分の表現力には絶望しました。
 その後、教える立場になり、世界のあちこちで講義や講演をしてきましたが、日本の学生はひいき目に見ても自己表現力が弱いと言わざるをえません。「質問がないか」と聞くと、「ない」と答えるのが日本、ありすぎて困るのが米国とインド。韓国や中国でもよく質問が出ます。
 なぜ質問がないのでしょうか。第一に、日頃から物事を深く考えることがないのかもしれない。第二に、自分の意見や気持ちを表現するのが苦手なのかもしれない。第三に、人前で立ち上がって質問することをダサイと思っているのかもしれません。
 グローバル化が着実に深化していく中、自己表現力が弱い学生は圧倒的に不利です。自分の存在をしっかりとした言葉でアピールする能力を向上させるよう、大学教育はもっと力を入れるべきです。
 私自身を振り返ると、大量の読書の上に、分析を通して議論を展開しようとする時、自分は何をどのように論じようとしているのか、明晰に書けていないことにいつもやりきれなさを覚えていました。分かってはいても、自分の考えを丁寧に、正確に、首尾一貫した論理で、しかも説得的に表現することが今でも容易でない。英語だから難しいのは当然だとして、自己表現力の弱さを英語の問題にすりかえ、自己表現力向上への努力を怠っていたのです。
 このままでは、国語もダメ、英語もダメ、自己表現力もダメな学生がどんどん増えていくのではないか。自己表現力という問題の重要性を認識し、その対策を取れば、日本の大学教育の弱点の半分は解決する方向に向かうことは間違いありません。大臣の御高配を祈願します。

要点は以下3点。

  1. 日本の学生は自己表現力が弱い
  2. これでは世界で戦えない
  3. 日本の大学は自己表現力対策をすべき

1と2は概ね同意。日本の教育では大量のインプットをそのままアウトプットすることで進級できるため、基本的には記憶力がモノを言う。自己表現力に必要なことは、インプットを「加工してアウトプット」する能力である。加工して自分の中に留めておくだけでは自己啓発にはなるかもしれないが、周囲から見れば何も存在しないのと同義である。日本人はここが圧倒的に弱い。一人遊びは得意だけど、それを共有するスキルが弱い。「加工してアウトプット」する能力を向上させるためには次のサイクルを繰り返すだけでいい。

五感でインプット → 考える → 書く、話す

能力向上の近道(コツ)はあるだろうけど、まずはこれをひたすら繰り返す。勉強だけでなく、遊びでも普段の生活のことでも構わない。繰り返すことで必ず能力は向上する。ただし条件が一つだけある。長期間続けること、訓練ではなく習慣にすること。一週間や一ヶ月でどうにかなるものではない。

さて、要点の3つ目。これは半分同意で、もう半分は微妙なところ。というのも、この寄稿文はおそらく学生に対して自己表現力対策をすべきという意味で書いていると思われる。しかし、自己表現力対策をすべきは残念ながら学生ではなく(より前に)大学教授である。これは二流三流大学のことだけではなく、いわゆる一流と言われる大学でも同様だ。大学生活をしたことがある人は思い出してほしい。自己表現力が高い教授は多く見積もっても3割程度だろう。優しい人なら5割程度と言うかもしれない。つまり半分以上の大学教授は自己表現力がダメと言わざるをえない。

なぜこんなことになっているのか。それは大学教授になる過程でコミュニケーション能力は問われないからである。この場合のコミュニケーション能力とは、自分より経験・知識・技術で劣る者との対話能力のことだ。自分と同レベルの教授や知識人といくら対話ができても、大学教授の仕事の1つである講義で学生と対話ができなければ教授失格である。

この寄稿文は素晴らしいものだと思うが、猪口孝はこの寄稿文をまず自学の教授たちに読ませ、教授たち自身の問題であることを伝えてください。新潟県立大学の未来が楽しみです。

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2010年2月14日日曜日

論理≠真理

読売新聞2010年2月10日朝刊の記事を紹介する。

裁判員「主張分かりにくい」
弁護側、検察側の9倍

 裁判員裁判での弁護側の主張や立証が分かりにくいと感じた裁判員経験者の割合が、検察側の主張などを分かりにくいとした人の9倍に上ったことが、最高裁が9日に公表したアンケート結果でわかった。
 アンケートには、昨年11月末までに判決が出た77件の裁判で裁判員を経験した442人が回答。「法廷での説明などの分かりやすさ」を尋ねたところ、検察側の主張や立証を「分かりにくかった」とした人は5人(1.1%)だったのに対し、弁護側は44人(10.0%)に上った。一方、81.9%が検察側の主張や立証を「分かりやすかった」と回答。弁護側は52.3%にとどまった。

この記事を読んでまず思ったのは「どんだけ無茶な論理で弁護してんだよ!」だった。まあ弁護士の仕事は依頼人を守ることだから、どんなに依頼人が不利な状況でもなんとか助けるための糸口を探し、それすら困難な場合はあらゆる言葉を使い「心証」に訴えかける。想像だけど、弁護士自身も「さすがにこれは無茶だな・・・」と思いながら弁護することも多いだろう。本当に大変な仕事だ。

では検察は「無茶な論理」で被告を追求することはあるのだろうか?最近話題になっている小沢一郎の周辺での政治資金規正法がらみの件では、検察が「無茶な論理」で小沢一郎を起訴しようとしたのではないか、とも言われている。また、検察は一旦起訴した案件で負けると検察内部での評価に響くので、有罪に持ち込むためには「無茶な論理」も使うらしい。

上記は伝聞だし、私は当事者になったことが無いので本当のところは分からないが、一般的に「正しいこと」をすると思われている人たちが「無茶な論理」を振りかざすことは、実は結構多いのかもしれない。

法曹関係者が常に正しいとは限らない。市民感覚が常に正しいとも限らない。そもそも「正しい」かどうかなんて人によって、国によって、時代によって、異なることが少なくない。

あなたは「無茶な論理」を振りかざしていませんか?

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2010年2月6日土曜日

死者は生者を助ける

読売新聞2010年1月22日朝刊の”編集手帳”から一部抜粋して紹介する。

◆欧米にくらべて遅れている検視制度を改るべく、警察庁が近く研究会を発足させるという◆警察が一昨年扱った”異状死”約16万体のうち、検視官が現場に立ち会ったのは9.7%にとどまる。解剖せずに「自殺」と判断して犯罪が見逃された事例がなかったかどうか。研究会は検視官や解剖医の増員に向けた具体策などを議論するという

近頃話題の結婚詐欺殺人容疑女に関連して書かれたのだろうか。 まあそれはそれとして、たったの9.7%というのは「異常」だろう。しかもこの数値は検視官が現場に立ち会ったケースであり、実際に解剖されたケースはさらに少ないはずである。現役医師で作家の海堂尊の著書(なんだったか忘れた)によれば5%無かった気がする。ちなみに異状死とは超簡単に言うと「よくわからない死」のことである。「よくわからない」というのは犯罪による死の可能性があるということだ。犯罪の可能性があるにもかかわらず、ほとんど解剖されない理由は次の2つである。

  1. 解剖医の不足
  2. 解剖にかかる費用

1については、医師の気持ちとしてエキサイティングじゃないから志望する人が少ないのではないか。「死体をいじるのは研修で十分」、「医師は病気を治すもの」と考えていれば解剖医の選択肢は無いだろう。まあこれは推測だが。

2については、司法解剖の場合は国がお金を出してくれるのだが、1体の解剖でたったの7万円である。実際には解剖にかかる費用、組織の検査、臓器の保存、その他の様々な費用がかかるため、解剖するたびに病院の持ち出しとなる。なぜこのような事態となっているのかがよくわかる一文を紹介する。パトリシア・コーンウェルの女性検屍官シリーズの『接触』で主人公の検視官が同僚に嘆いた言葉だ。

私たちが十分な予算をもらえることは絶対にないわ。
死人は投票しないから。

予算の増額はもちろん望むところだが、解剖にかかる費用や解剖医不足を補う方法として海堂尊はAI(オートプシー・イメージング)を推奨している。AIとは死亡時画像診断や死亡時画像病理診断のことである。AIを実施することにより、目視による体表の確認だけではわからない体内の異常を確認し、解剖が必要かどうかの切り分けができる。この切り分けが非常に大事で、これが行われなかったために何らかの犯罪性の異常を見落としてきたケースが無かったとは言えない。我々の想像以上に日常の中に「殺人」が潜んでいるかもしれない。

安心して暮らせる国を作るためにも、現在の検視制度を早急に見直す必要がある。

本記事とは直接の関係は無いが、パトリシア・コーンウェルの女性検屍官シリーズの翻訳者である相原真理子が1月29日に亡くなった。謹んで哀悼の意を表します。

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