2010年2月20日土曜日

自己表現力

読売新聞2010年2月5日朝刊の記事を紹介する。少し長いが全文を掲載するため、読むのが面倒な方は下に要点を3点あげたのでそれを見てください。

拝啓 文部科学大臣様
自己表現力の向上 重視を
猪口孝 新潟県立大学学長

 自己表現力について、私には今でも忸怩たる思いがあります。1970年に米国に留学していた頃、大学の社会科学系の図書館長にある要請をしに行きました。内容は、ある分野の蔵書が弱いとかいったたぐいのことでした。
 小柄な館長の口から返ってきた言葉は、「君は何をしてもいい。ただ、石ころを窓に向かって投げないでくれ!」。私の格好はといえば、ヒゲを蓄え、ジーパン姿。笑顔もなく、ぶっきらぼうで、単刀直入な英語だったのかもしれません。それにしても、自分の表現力には絶望しました。
 その後、教える立場になり、世界のあちこちで講義や講演をしてきましたが、日本の学生はひいき目に見ても自己表現力が弱いと言わざるをえません。「質問がないか」と聞くと、「ない」と答えるのが日本、ありすぎて困るのが米国とインド。韓国や中国でもよく質問が出ます。
 なぜ質問がないのでしょうか。第一に、日頃から物事を深く考えることがないのかもしれない。第二に、自分の意見や気持ちを表現するのが苦手なのかもしれない。第三に、人前で立ち上がって質問することをダサイと思っているのかもしれません。
 グローバル化が着実に深化していく中、自己表現力が弱い学生は圧倒的に不利です。自分の存在をしっかりとした言葉でアピールする能力を向上させるよう、大学教育はもっと力を入れるべきです。
 私自身を振り返ると、大量の読書の上に、分析を通して議論を展開しようとする時、自分は何をどのように論じようとしているのか、明晰に書けていないことにいつもやりきれなさを覚えていました。分かってはいても、自分の考えを丁寧に、正確に、首尾一貫した論理で、しかも説得的に表現することが今でも容易でない。英語だから難しいのは当然だとして、自己表現力の弱さを英語の問題にすりかえ、自己表現力向上への努力を怠っていたのです。
 このままでは、国語もダメ、英語もダメ、自己表現力もダメな学生がどんどん増えていくのではないか。自己表現力という問題の重要性を認識し、その対策を取れば、日本の大学教育の弱点の半分は解決する方向に向かうことは間違いありません。大臣の御高配を祈願します。

要点は以下3点。

  1. 日本の学生は自己表現力が弱い
  2. これでは世界で戦えない
  3. 日本の大学は自己表現力対策をすべき

1と2は概ね同意。日本の教育では大量のインプットをそのままアウトプットすることで進級できるため、基本的には記憶力がモノを言う。自己表現力に必要なことは、インプットを「加工してアウトプット」する能力である。加工して自分の中に留めておくだけでは自己啓発にはなるかもしれないが、周囲から見れば何も存在しないのと同義である。日本人はここが圧倒的に弱い。一人遊びは得意だけど、それを共有するスキルが弱い。「加工してアウトプット」する能力を向上させるためには次のサイクルを繰り返すだけでいい。

五感でインプット → 考える → 書く、話す

能力向上の近道(コツ)はあるだろうけど、まずはこれをひたすら繰り返す。勉強だけでなく、遊びでも普段の生活のことでも構わない。繰り返すことで必ず能力は向上する。ただし条件が一つだけある。長期間続けること、訓練ではなく習慣にすること。一週間や一ヶ月でどうにかなるものではない。

さて、要点の3つ目。これは半分同意で、もう半分は微妙なところ。というのも、この寄稿文はおそらく学生に対して自己表現力対策をすべきという意味で書いていると思われる。しかし、自己表現力対策をすべきは残念ながら学生ではなく(より前に)大学教授である。これは二流三流大学のことだけではなく、いわゆる一流と言われる大学でも同様だ。大学生活をしたことがある人は思い出してほしい。自己表現力が高い教授は多く見積もっても3割程度だろう。優しい人なら5割程度と言うかもしれない。つまり半分以上の大学教授は自己表現力がダメと言わざるをえない。

なぜこんなことになっているのか。それは大学教授になる過程でコミュニケーション能力は問われないからである。この場合のコミュニケーション能力とは、自分より経験・知識・技術で劣る者との対話能力のことだ。自分と同レベルの教授や知識人といくら対話ができても、大学教授の仕事の1つである講義で学生と対話ができなければ教授失格である。

この寄稿文は素晴らしいものだと思うが、猪口孝はこの寄稿文をまず自学の教授たちに読ませ、教授たち自身の問題であることを伝えてください。新潟県立大学の未来が楽しみです。

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