2010年1月21日木曜日

世界は独善的か?

読売新聞2010年1月20日朝刊の記事を紹介する。
これは、地下鉄サリン事件等で殺人罪などに問われた元オウム真理教幹部、新実智光被告の死刑判決が確定したことを伝える記事の一部だ。

逮捕後、多くの教団幹部が松本死刑囚と決別したのに対し、新実被告は公判で、なお弟子であることを宣言。犯行についても、「多数を救済するため、少数を犠牲にするのはやむを得ないと考えた」などと独善的な論理を振りかざし、被害者らにも「被害を受けたのは因果応報」と言い放った。

新実被告が実行した数々の犯罪はまさに独善的と言わざるを得ない。また、「被害を受けたのは因果応報」という言い分は妄想に取り憑かれた狂人のそれとしか思えない。しかし、「多数を救済するため、少数を犠牲にするのはやむを得ないと考えた」という論理は独善的なのだろうか?
私はそうは思わない。

goo辞書によると独善、独善的の意味は以下の通り。

■独善
 ・自分ひとりが正しいと考えること。ひとりよがり。
 ・自分ひとりの身を正しく修めること。
■独善的
 ・ひとりよがりであるさま。

さて、「多数を救済するため、少数を犠牲にするのはやむを得ないと考えた」ことが独善的であるとするならば、世界で起こっていることのほぼ全てが独善的であると言わざるを得ない。なぜならそれは民主的な行動の最も基本的な論理であるからだ。この記事を書いた記者がそれを独善的だと考えているならもう何も言う事はない。しかし、そうでないならなぜこのような表現をしたのか。

このケースでは新実被告というわかりやすい「一般市民の敵」がいて、その罪が確定している。本来はそれだけで十分なのだが、記者としては物足りない。読者を引き寄せるにはできるだけインパクトの強い言葉を使う必要がある。一般市民の味方であるジャーナリストとしては、もっと「わかりやすい」悪に仕立て上げることが一般市民の欲求を満たすことだと考える。この記者はそう考えたのではないだろうか。とても単純な論法だ。やっていることは三流ゴシップ誌と変わらない。このような妄想で書かれた記事こそがまさに「独善的」と言える。

マスコミ企業が思想を持つことは否定しない。人間の行動に必ず何かしらの思想に基づくことは間違いない。 大切なのは、中立・公正を謳う人間も思想を持っているということを認識し、あらゆる情報にそれが紛れ込んでいることに気付く力を養うことだ。その上でそれをどう理解するかは自分次第である。

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